相田みつを 「生きていてよかった」 より引用     


  つまづいたおかげで

つまづいたり
ころんだりしたおかげで
少しずつだが自分のことが
わかってきました

あやまちや失敗を
くり返したおかげで
人のことをいう資格のない
自分に気がつきました

そして---
いざという時の
自分の弱さとだらしのなさが
よくよくわかってきました

だから
つまづくのもおかげさま
ころぶのもおかげさまです






「自分が死ぬと、その知らせが
日本へゆくな。

おふくろやおやじ、弟達が
それを聞いてどんなに歎くことか。

いま、死んでゆく自分にとって、
そのことが一番辛い。

戦争は人間の作る最大の罪悪だなあ・・」

これは、いまから四十数年前、中国で
戦死した、私の兄の最期のことばです。

兄の戦友が、内緒でよこした手紙で
わかりました。

 私には兄がもう一人いて、やはり、
ビルマの戦場で死にました。

二人の兄達は、
弟の私に、
いつも人間としての
生き方や夢を
語ってくれました。

二人の亡き後、
それはそのまま、
わたしの、「願」となりました。

 願とは、
自己中心的な欲望ではなくて
仏さまのよろこぶ生き方
のことではないかと
思います。

  「一九八七年三月二一日」



  自 分 の

 う し ろ 姿 は

 自 分 じ ゃ

 み え ね ん だ

 な あ




そ ん か
と く か

人 間 の
も の さ し

う そ か
ま こ と か

仏 さ ま の
も の さ し




ものさし

 そんかとくか
 勝ったか負けたか
 金が有るか無いか

 人間が価値判断する時の「ものさし」
は、常になにかと比べての相対的な
ものです。
その代表的なものが、そんとく、という
<ものさし>ですね。

人間はどうしてもとくの方へ走ります。
ところが、そんとくの判断ですから、
株式相場とおなじで絶えず変動します。
昨日のとくが今日のそんというふうに。
そのたびに自分の立っている位置が
右に左に変わります。
それが右往左往です。

右往左往しない自己を確立させること
が大切ですね。
それには、そんとくを超えた
仏の<ものさし>を持つことですね。




 あんなにして

 やったのに

 『のに』がつくと

 ぐちが出る



の に

 遊於娑婆世界(ゆおしゃばせかい)
      =娑婆世界に遊ぶ=

 有名な観音経の中に出てくる言葉です。
観音様の仕事は、迷い苦しむ人間を
だれかれの差別無く、すべて救って
仏(真実)の世界へ導くことです。
しかし、それは、観音様にとっては
<遊び>だというんです。

 遊びだから、それによって何かの
報酬を得ようとか、人からよく思われ
たいとかいう意識は全くありません。
 そんとく勘定の一切まじらない純粋な
行為、それが観音様の仕事であり、
遊び、なんですね。
 人の世話を一生懸命して、「のに」
や「ぐち」を少しも言わない人は、
観音さまではないかと私は思います。





雨 の 日 に は

雨 の 中 を

風 の 日 に は

風 の 中 を





あたりまえの生き方

 私ごとで大変恐縮ですが、これは
私の作品集のタイトルです。
 雨の日を、天気のいい日と比べて
「悪い日」だと思う、人間(自分)中心
の考え方をやめること。

雨の日には、雨を、そのまま全面的
に受け入れて、雨の中を雨と共に
生きる。風の日には、風の中を
風といっしょに生きてゆく、という
意味です。

つまり、特別なことではない、ごく
あたりまえの生き方のことです。
あたりまえだけど、これは、常に
前向きで、積極的に生きるという
ことです。
そして、この場合の、雨や風は、
次から次へと起きてくる人間の
悩みや迷いのことです。





 やれなかった

 やらなかった

 どっちかな

やらなかった理由をさがせばいくらでもあるんだよなぁ---

人間は他人に弁解しているうちはまだいい。
自分が自分に一生懸命弁解していることがある。

ひとごとじゃない。自分のこと。


にんげんだもの1  にんげんだもの2  雨の日には1  雨の日には2

一生感動・一生青春  しあわせはいつも  じぶんの花を  生きていてよかった

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