わがまま日記

( ̄。 ̄;)2003.2
HOME 人生の応援歌 ハリポタ大好き お友達 りかちゃん
2002.7-8-9-10-11-12  2003.1-2-3-4-5-6-7-8-9-10-11-12
2004.1-2-3-4-5-6-7-8-9-10-11-12 2005.1-2-3-4-5-6-7-8-9-10-11・12
おはなし掲示板 個人ニュース こころの散歩道  Next
過去ログ(^_^;)へBBS4つ お天気プラスone情報源朝日読売日経
精霊達の森move?デジタルフォトギャラリー素材散策自然いっぱいの素材集web素材

しあわせは いつも じぶんの こころが きめる(相田みつを)
2003. 2.13
木曜
みなさま、こんばんわ。

今日は、再び人生の応援歌ページにリンクさせて頂いている、仙台いたみのクリニック(HOME)内「祈り」のページからキング牧師の祈りを読ませて頂きます。

数日前から、何回か読み返しておりました。

マルティン・ルーサー・キング・Jr牧師というアメリカの偉人ですね。

39歳という若さで、凶弾に倒れ、短い生涯を終えました。

毎年、1月の第三月曜日は、キング牧師の誕生日として、アメリカ国民の祝日となっているそうであります。

そのことだけでも、いかにアメリカ国民のこころに深い影響を与えた方かが、よくわかりますね。

いくつかのご紹介サイトもございましたので、紹介します。
アメリカの祝日=キング牧師誕生日=http://www.ncwind.net/seasons/king.html
キング牧師http://www.labo-global.co.jp/spc-o-word/wordpro/king/king.html
キング牧師のスピーチhttp://kmcweb.virtualave.net/special/kings.shtml
シスターのつぶやきhttp://www.pauline.or.jp/tubuyaki/tubuyaki13.html

かなり以前、テレビで、このキング牧師の演説"I Have a dream!!"を見たことがありましたが、改めて読み直させて頂くと、ほとばしる情熱と勇気そして深い信仰心が感動を持って現代の私たちにも伝わってまいります。

本日の感じるお話です。

キング牧師の祈り

 友よ、私は今日あなたがたに言いたい。
われわれは、今日も、明日も、多くの困難に直面するだろうが、それでも、私には夢がある。

 私には夢がある。
それは、いつの日か、この国が立ち上がり、<われわれは、すべての人びとは平等につくられていることを、自明の真理と信じる>という信条を、真の意味で実現させることだ。

 私には夢がある。
それは、いつの日か、ジョージアの赤土の丘の上で、かつての奴隷の息子と、かつての奴隷所有者の息子が、兄弟として同じテーブルに腰をおろすことだ。

 私には夢がある。
それは、いつの日か、不正と抑圧のために熱く蒸しかえるミシシッピ州でさえも、自由と正義のオアシスへと変わることだ。

 私には夢がある。
それは、いつの日か、私の四人の小さな子どもたちが、肌の色によってではなく、人格そのものによって評価される国に生きられるようになることだ。

 私には夢があるのだ!

 われわれが、すべての村や集落で、すべての州や町で自由の鐘を鳴り響かせるとき、そのときこそ、われわれは、黒人も白人も、ユダヤ教徒も異教徒も、プロテスタントもカトリックも、すべての神の子たちが手を取り合って、あの古い黒人霊歌を口ずさむことができる日が来るのを、早めることができるのだ。

 ついに自由だ!ついに自由だ!
 全能の神に感謝せん、われわれはついに自由になったのだ!



 もし私の最期の日に立ち会うことがあったら、長々と弔辞を述べないで下さい。

私がノーベル平和賞を受賞したことなど言わないで下さい。
そんなことは重要なことではないのです。
何百もの賞を受けたことなど言わないようにお願いします。
どこの学校に行ったかなど、どうでもいいことです。

 最期の日には、私マーティン・ルーサー・キングJr.は、人のために一生を捧げた、と言ってもらいたいのです。

戦争の問題では、つねに正しい立場に立ったと言ってもらいたいのです。

すべての人間を愛し、仕えたと言ってもらいたいのです。

 私は、お金もぜいたくな物も後に残すつもりはありません。
ただ私は献身的な生涯を残したいだけです。

もし、私がキリスト者としての義務を果たすことができるなら、もし世界を救済することができるなら、もし、御言葉を広めることができるなら、私が生きたことは無駄ではなかったのです。

 そうです。イエス様、私は利己的な理由からではなく、あなたの御許にいたいのです。

政治的な思惑や野心からではなく、愛と正義と真実と人にたいする思いやりをもって、あなたの御許にいて、この古い世界を新しい世界にしたいのです。

 これから先、何が起ころうとしているのか、私にはわかりません。
たしかに、われわれの行く手にはさまざまな困難が待ち受けています。
しかし、私にとって、それはもはや問題ではありません。
なぜなら、私は、山の頂にのぼったのです。
私は、もう何も気にしてはいません。

 ほかの誰もがそうであるように、私も長生きをしたいと思っています。
長く生きることには、それなりの意味があります。
しかし、私は、いま、そのことに執着していません。
私は、ただ、神の意志のままに行動したいのです。

 神は私に山の頂へ行くことをお許しになりました。
そして、私は山の向こうを眺めてみました。
そこに、私は約束の地を見たのです。
みなさんとともに、あの約束の地へ行くことは、私にはできないかもしれません。
けれども、今夜あなたがたに知ってほしいことは、われわれは、みな、いっしょに、約束の地へ着くことができるということです。

 私は、いま、とても幸せです。
 何も心配しておりません。
 誰もおそれておりません。

 私の目は、主の降臨の輝きを見たのです!


岩波ジュニア新書 : 辻内鏡人、中條 献 著 : 「キング牧師」 

ありがとうございましたm(__)m
2003. 2.9
日曜
こんばんわ。

本日は出社です。

なんとなく、久しぶりに昨年春の写真を引っ張り出してきました。

今年も素敵な桜を是非見たいものであります。

最近はとりたてて、目新しい事もありませんが、日々いろいろと考えることも多く、心情的に、いつもすっきりというわけにもいきません。

今日は、人生の応援歌ページにリンクさせて頂いている、仙台いたみのクリニック(HOME)内「祈り」のページから「V.E.フランクルの祈り」を引用させて頂きました。

ご存知の方も多い事と思いますが、「夜と霧」の著者がヴィクトル・フランクルです。

夜と霧 =ドイツ強制収容所の体験記録=
http://www.msz.co.jp/newtitles/newbooks/0601.html
夜と霧 新版
http://www.msz.co.jp/titles/3970.html


考え方の根本に抑えておくべきことではないだろうかと思いまして、長文ではありますが、載させて頂きます。

本日の感じるお話です。

ヴィクトル・フランクルの祈り 

ヴィクトル・フランクルは、アウシュヴィッツの強制収容所の体験、観察にもとづいて「夜と霧」という書物を刊行したが、この中で人間が限界状況のなかに立たされたときに、人はどのような態度をとるか、何が人を生かすのか、について、実例をあげながら叙述している。

そのなかで、私たちが真にいきるためには、人生を問う観点の変更を必要とすることを書いているのである。

 私たちはよく自己を中心とした立場に立って、人生にいみがあるか?と問うのであるが、実は私たちこそ人生から問われているのだ、というのである。

人生が自分の思いどおりにならないと、一体人生に意味があるのか?と懐疑的になり,問うてみるのである。

しかし人生の意味を問うそのあなたは、今、どこに立っているのか?そのことをまず、ひるがえって考えて見るべきである。

この人生を見る観点が変わることによって、今まで見えなかったものが、本当の姿が、みえてくることが起こりうるのである。

 さてアウシュヴィッツ収容所における出来事であるが、二人の自殺を決意した人たちがフランクルのところに来て、自分たちの心境を、そして自殺を決意したことを打ちあけたのである。

そのときフランクルは彼らに向かって「あなたは、だれかあなたの帰りを待っている人がいないのですか?あるいは、何かあなたをまっているもの,たとえば、あなたでなければなし得ない仕事というようなものでも、ないのですか?」とたずねた。

すると、そのなかの一人は「私には妻子が、私が無事であることを願い、ぜひ帰ってくるのを待っているのです」と答えた。

もう一人は「私には私でなければだれも代わって、なしとげることのできない仕事が待っているはずです」と答えた。

そこでフランクルは「そうですか。その、あなたを待っている人たちのあなたへの期待に、またあなたを待っているその仕事の要請にあなたは応答しなければならないのです。決して早まって自殺してはいけないのです。最後まで忍耐して、あなたを必要としている者たちに応答しなければならないのです。生きるとは応答することです。自分のことだけを考えてはいけません」、と勧告したのであった。

 そしてやがてドイツは降伏し、彼らは収容所から解放されて帰国することができたのである。
 
 私たちは自分のことだけを考え、また、自分の見通しだけを尺度として、希望が持てなくなったから、自殺を決意し遂行しようとすることは、自己中心的であり、自己主張を貫くことである。

それは、与えられた生を全うするものではなく、自己破壊を自ら行うことになるだろう。

私たちの生は他者への生であり、他者に応答する生であるべきなのである。

それゆえに、上の強制収容所に入れられた場合、あるいはいろいろの事情の変化により、解放される以前に死を迎えることがあるかもしれない。

そういう極限状態にあっても、なお一日一日を、自分を必要としている他者のために最後まで応答し、最後まで忍耐し、行き通したという事実こそ、その人は本当に立派に与えられた生を全うした、ということになるのである。

結果がどうかを問わず、主体的に応答の人生を生きぬいた、その生は決して空しくさるものではない。
 
 まことに人生を問う観点の変更は、わたしたちの生(他者への生において全うされる)を全うするために必要な条件である。

小田島 嘉久 : 著 :「キリスト教倫理入門」 : ヨルダン社

ありがとうございましたm(__)m
2003. 2.5
水曜
みなさま、こんばんわ(^o^)丿

写真は、2月1日の諏訪湖です。

中央高速の諏訪湖SAからの眺めで、凍結した湖面が光っておりました。

2月初旬の土日は、長男の結納のため、家族で長野旅行となっておりました。

こんな時でないと、旅行一つできませんので、家族には申し訳ないところです。(一応)

長男は出張先の関西から合流いたしました。

素敵なご家族のご長女の可愛いお嬢さんでした。

誠に有難いご縁であります。

ご両親様ともお時間の許す限りお話することができました。

いわゆるジューン・ブライトの予定のようであります。

我等家族も久々の温泉にのんびりと愉しませて頂きました。

しかし、時の経つことの早いこと、まさしく光陰矢の如し、であります。

長男のお嫁さんの優しく、静かな笑顔が、印象深くこころに残った結納でございました。

本日の感じるお話、二題です。
     無常の楽しさ      庭野日敬  (1967年、昭和42年)

 諸行無常(しょぎょうむじょう)というと、この世のすべてははかないものだと、世をはかなむ考え方のように解されがちですが、無常のほんとうの意味は、この人生は努力次第でどんなすばらしいものにも変えられるものであり、無常なるがゆえに努力のしがいがあることを教えているのです。

 諸行無常とは「一切法は因縁(しょう)なり」とあるように、すべては因と縁によって変化していくということです。それを「因縁だから仕方がない」とあきらめるのではなく、積極的に心を改造し、因縁をよりよく展開させていくのが仏道精進です。

     いまなすべきことを    庭野日敬  (1965年、昭和40年)

 現在がなければ過去はなく、現在なくして未来もありません。

 この現在に全力を注いで生きることによって、それまで過ごしてきた過去が価値あるものになり、また未来が充実したものになっていくのです。

 「(ふち)(のぞ)んで(うお)(うらや)むは、退(しりぞ)いて(あみ)(むす)ぶに()かず」という言葉があります。

 願望だけをふくらますのでなく、まず手元の、なすべきことに打ち込むことが大切だという意味です。

 私たちも現在という一点を見つめて、なすべきことを一心になす心構えがなによりも大切だと思うのです。
ありがとうございましたm(__)m

SEO [PR] 爆速!無料ブログ 無料ホームページ開設 無料ライブ放送