わがまま日記

( ̄。 ̄;)2003.3
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人生において 最も大切な時 それはいつでも いま です(相田みつを)
2003. 3.31
月曜
こんばんわ


八甲田山の樹氷の朝、だそうでございます。


今月は、ずっと桜の花を見続けてきましたが、今月の最後に、いまだ春遠し、の世界も眺めてみたくなりました。


寒そうですね(~_~;)・・・・


一方、今日の暖かさで東京はすっかり開花がすすみました。

道路を走っていても、あちこちで見事なサクラの花が咲いていますね。

明日から4月(卯月)です。全国で入社式なども行われるのでしょう。

そういえば、今日、関西出張中の長男からメールがありました。

住まいが兵庫県西宮市内の寮から大阪府大阪市のマンションに来月半ばに移るそうであります。

2月初旬に家族でお邪魔した結納がふと思い出され、しっかりがんばってほしいものだと祈った次第です。

本日の感じるお話です。
    縁こそ大事    庭野日敬  (1971年、昭和46年)

 縁起(えんぎ)の法則は仏教の根幹をなす法門で、すべてのものは縁によって存在し、生起(しょうき)している、という考えです。

 私とあなたが出会って話をする。そこに縁が生じ、関係が生じた結果、意見が一致し、ともに手をつないで()いことをしようと立ち上がり、行動したとします。つまり、出会いという縁によって善い成果が生まれるわけです。

 この出会いが言い換えれば縁なのです。それが善いほうにも、ときには、悪いほうにも人を変えてしまいます。縁はまことに大切なものです。この縁を善い縁にしなければならないというのが、お釈迦さまの教えです。

 私たちは、他との縁を絶ち、人との交際を絶って孤立して生きていくことはできません。人間の社会で生活していくのには、好ましい出会いもあれば、ときには嫌な、つらい出会いにもぶつかります。そのとき、どのようにその縁を受け止めていくかです。

 他を排斥(はいせき)したり(うら)んだりすると、ますます悪縁が重なってきます。「他を生かしてこそ自分も生かされる」というお釈迦さまの教えは、この縁を大事にすることから始まるのです。
ありがとうございましたm(__)m
2003. 3.30
日曜
こんばんわ
本日は、にわかカメラマンのかわいい(>_<)個展です。
↑は林試の森の桜です。五分咲きかな(^_^;)
↑も林試の森の白木蓮・可愛い花(^_^;)・オオシマサクラかと(^^ゞ
↑は目黒川沿いの桜なんですが、下のほうが枝振りが良かったです(^^ゞ
↑はちょっと上流に枝振りの良い桜並木が一杯ありました(^o^)丿
↑は武道館の九段のお堀の桜です。まだ満開でなくて残念至極(^_^;)
↓も同じで、今日はトキオのコンサートで女性だらけです(^^ゞ
デジカメで取りまくったため、整理しきれずに適当に選びました(^_^;)
傑作がうずもれている可能性も・・・少しは残されています(~_~;)・・・

本日の感じるお話です。
    一粒の(むぎ)死して    庭野日敬  (1965年、昭和40年)

 「一粒の麦、地に落ちて死なずばただ一つにてあらん。もし死なば多くの実を結ぶべし」という『聖書』の有名な言葉があります。

一粒の麦は土に落ちて命を失っても、やがてそこから多くの芽が吹き実を結びます。それと同様に、私たちも自分を捨てて人さまのために一心不乱に働いていると、それが多くの実りをもたらしてくれるのです。

自分を捨てるとは、自己中心の考え方を離れて、仏さまが示されたとおり、人の幸せのために献身を惜しまないことです。

自分ばかりを大事にし、自分だけを守ろうと必死になっていると逆に自分がしぼんでしまうのです。
ありがとうございましたm(__)m
2003. 3.29
土曜
こんばんわ

身延山久遠寺のサクラですね。

素晴らしい景観です。

ちょっと検索してみましたら・・・

久遠寺ホームページ
久遠寺縁起
お題目と日蓮聖人

というようなページもありますね。

僕も初めて見ました(^^ゞ

今月もあと数日を残すのみですが、桜の開花もやっとつぼみが開き始めたころでしょうか。

もう一週間後のころが満開かもしれません。・・・・・来週の日曜日は4月6日です(^_^;)

九段のお堀の桜とか御苑・上野公園など都内の桜の名所めぐりでもできれば有難いのですが・・・。

4月6日は、僕の誕生日でもあります、昔の大学のゼミの教授も同じバースデーでした(^_^;)

そういえば、ネットのお友達のひめたんのカンタくん(6歳)も同じお誕生日でしたね(^○^)

ご挨拶をしに、ひめたんのページにおじゃましたいと思います(^o^)丿

本日の感じるお話です。
    大恩を知る    庭野日敬  (1995年、平成7年)

 この人生でなによりも大事なのは、自分自身を知ることです。

 その本当の自分に気づかせてくれるのが、宗教なのです。

 小学校から大学まで、あり余るほどの知識を詰め込んできていながら、そのいちばん肝心かなめのところを教わらず、そこを突き詰めて考えようとしない人が、多くなっているように思えます。それをつかまないと、物や金だけを頼りにしてそれに振り回される生き方に流されがちなのです。

 人は自分一人だけの力で生きているのではなく、生かされている自分であることを知ってこそ、どう生きるのが本当の生き方なのかが分かってきます。周囲の社会と切っても切れない関係でつながり、まわりによって生かされている自分の責任を、どう果たしていくか。その大もとが定まらないと社会でのさまざまな関係が整っていかないのです。

 日蓮聖人は『報恩抄(ほうおんしょう)』で、父母の恩、師の恩、国の恩に報いる大切さを教えられていますが、自分がこの世にあるその恩を知ることで、自分の生き方が定まってきます。

 現代の社会のさまざまな問題の根は、一人ひとりが尊い命をいただいているその大恩を教えなくなったところにあるように思うのです。
 
ありがとうございましたm(__)m
2003. 3.28
金曜
こんばんわ


我が家の庭に、さほど大きくはありませんが、一本のサクラの木があります。


毎朝・毎晩、正面の門をスライドさせながら(車を出入りさせるので)、僕はその門の横にある、サクラの木を眺めています。


今日などは、となりのお写真以上に開花しておりました。

それでも、蕾みの部分のサクラも多いので、お写真を載せたくなりました。

また、今の時期はさくらのほかに梅の花・桃の花・木蓮の花などもなかなか見事に開花しているのもよく見かけます。

見事に開花した綺麗な色の花びらを見かけますと、思わず車速を緩めて見入ってしまいます。

一年の中で、この時期だけの眺めともいえるわけで、その点でも自然の営みとは、一期一会の只中で生き抜いているわけですね。

かくして、見ている方もそれなりにしっかり見届けておきたくなるのは、そうした自然からの感化によるものかもしれません。

本日の感じるお話、二題です。
    人生にむだはない    庭野日敬  (1978年、昭和53年)

 私たちが人生で体験することには一つのむだもありません。

 お釈迦さまが「人生は苦である」と教えられているように、私たちの人生には苦がつきものです。けれども私たちは不幸や苦しみに見舞われると、「なぜ自分だけがこんなに苦しい目にあわなくてはならないのか」と(うら)みごとを言い、嘆くのが常です。

 しかし、その苦しみを通らないと人生の本当の喜びは得られないのです。いや、苦しみを乗り越える、そのことの中に真の楽があるといってもいいのです。

 人は自分が実際に経営に失敗して苦しみ、病気で苦しんでみてこそ、同じ苦しみを持つ人に、それを乗り越える道、そして乗り越えたときの喜びを、自信をもって説くことができます。

 苦しみにぶつかったときに、「仏さまが、この苦しみを通して同じ苦しみにある人たちを救う力を与えてくださるのだ」と受け止められるようになると、力が内からわき上がってきます。その力が道を開いていくのです。

 「無用の用こそ大切」といいます。人生でぶつかるさまざまな苦しみ、むだな回り道と思えることも、すべて将来に生きていくのです。
 

もう一つの感じるお話です。当時の開祖先生のご家族が偲ばれます。
    親のうしろ姿の教化(きょうけ)    庭野日敬  (1979年、昭和54年)

 私の家には孫が四人、一緒にくらしております。まだ小学校や幼稚園に通っている子たちですが、私がご宝前(ほうぜん)でご供養をするときには、孫たちも一緒にすわって、読経(どきょう)するのです。

 なにしろ大家族ですから、それは(にぎ)やかで、家族全員がそろったかどうか点呼をとる、といった愉快で(なご)やかな情景が生まれるのです。

 朝早くからの毎日の読経供養は、まだ小さな子どもたちにはかわいそうかなとも思いましたが、そうして家族がそろって仏事を行じ、読経の席に連なる敬虔(けいけん)雰囲気(ふんいき)の中に身を置くことが全人(ぜんじん)教育の一つになると私は考えているのです。また、その毎日の行が、子どもたちの忍耐力をつけさせることにも役立つと思うのです。

 といっても、私の家でそうしているからといって、みなさんのうちでもそうしなくてはならないと、嫌がる子どもを叱りつけて無理やりすわらせるといったやり方では、逆に反発をつのらせるだけで、本当の教化にはなりません。

 やはり、親が毎日行じるそのうしろ姿を見せて、次第に感化していくことが大切だと思うのです。
 
ありがとうございましたm(__)m
2003. 3.27
木曜
こんばんわ


最近は暖かい日が続いて有難いです。


サクラもボチボチあちこちから咲き始めています。

右のお写真は、福島県二本松市の山なみと山桜だそうで、「安達太良の春」という題名が付いておりました。

素敵な題名ですが、このままの構図で絵も描けそうです(^^ゞ


僕も良く知らなかったのですが、目黒川沿いにかなりの桜並木があって絶景だと家内が言っておりました。
今年は是非見てみたいものです(^_^;)

近くの林試の森もサクラぐらいはあると思うので行って見ましょう(^○^) 日曜日にね。

サクラ以外の綺麗な花々もだんだんと咲いてきましたので、にわかカメラマンとしては腕の見せ所です(>_<)

本日の感じるお話です。
    責任転嫁(てんか)は自分に返る    庭野日敬  (1977年、昭和52年)

 お釈迦さまが世を去られてから、ほぼ百年後の紀元前三世紀ごろのインドで仏教の興隆に力を注いだアショカ王の教勅(きょうちょく)を刻んだ石碑が発見されています。

 そこに刻まれた言葉の大意は、「人は、自分はこんな()いことをしたと自分の善事だけを見て自分はこんな悪事をなしたと、自分の悪を見ることがまったくない」という内容だそうです。

 いまをさる二千三百年前の言葉ですが、昔もいまも、人間というものは自分の非を(たな)に上げて、自分に都合のよいところだけを宣伝するもので、そこのところは少しも変わっていないことを物語っています。

 なにか不都合なことが起こったとき、その原因を人のせいにし、社会のせいにし、政治のせいにして責任を他に転嫁していれば、自分は傷つかずにすみます。しかし、そうしているかぎり自己反省は生まれません。

 自分にも至らないところがあり、自分は足りない人間だという謙虚さを失って、いたずらに権利の主張ばかりが多いところに、健全で美しい社会は生まれるはずがありません。やがては自分が傷つかなくてはならないのです。
ありがとうございましたm(__)m
2003. 3.23
日曜
こんばんわ


東京(王子)音無親水公園のサクラです。


今回は、素材散策様よりお借りいたしました。


いろんなサクラを見させて頂くのもなかなか情緒があっていいですね(^^ゞ


以前にもご紹介したサイトですが、僕などはBGMを懐かしく聞きたくて、たまに覗いてしまうんですよ。

こちらです。http://homepage1.nifty.com/tachibana2000-1/sakura/index2.html

今日も暖かな一日でしたが、なかなか慌しくて、お客様の応対と事務処理で、すぐ夕方になってしまいました。

気温が徐々に上がってくるとのことで、春はもうそこ、です。

本日の感じるお話です。
    心は無限に育つ    庭野日敬  (1966年、昭和41年)

 人体を構成している物質を、鉄、リン、カルシュウムというように分解していくと、その物質は時価にしてわずか千円程度のものにすぎないといいます。しかし、人間の値段が千円ぐらいのものと思っている人はいないでしょう。では、人間の価値はどこにあるのでしょうか。

 人間の社会で教育が重要視されるのは人間が無限に向上する可能性を秘めているからで、人間の心は育て方で限りなく高まっていきます。これが人間の真価です。人間がただの物質にすぎないならば教育など必要ないものになってしまいます。
 
ありがとうございましたm(__)m
2003. 3.22
土曜
こんばんわ


会津若松・鶴ヶ城
のサクラだそうでございます。


城と桜は本当によく調和して、お似合いですね。


武士道の潔さがサクラの散り際のイメージに重なっているのでしょうか・・・・


今日もなかなか寒い一日です。

明日から暖かくなるというウワサもありますが、期待したいところであります。


おっと、あっという間に、午後の11時半になってます(>_<)

明日も元気にお勤めですので、ボチボチ失礼致します。

http://headlines.yahoo.co.jp/specialfeature/2003/iraq/
ヤフーニュース 特集 対イラク武力行使


本日の感じるお話です。
    ばかになりきる    庭野日敬  (1969年、昭和44年)

 ふつう、宗教は人から尊敬される人になることを教えるもの、と考えられていますが、私はいつも、みなさんに「ばかになれ」とおすすめするのです。もちろん「ばか」といっても、愚か者のことではありません。

 現代人は、毎日、知識のシャワーを浴びているようなもので、頭のよい人、利口な人ばかりが多くなっているようです。頭がよすぎると、人の言うことを素直に信じることができなくなり、なにごとも先を見通せるつもりで、「そんなことは、とても不可能だ」と決め付け、初めから手をつけようとしない、といった生きかたになりがちなのです。

 それにひきかえ、利口ぶらない人は、みんなが「できない」と決めてしまうことでも、「これが正しい道ならば」とコツコツと手がけて、ついに大事を成し遂げてしまうのです。これが、私の言う「ばかになる」ことです。

 初めのうちは、「あんなことをやっても、むだなのに」と冷ややかに見ていた人たちが、うならずにいられなくなってしまうわけです。
 自ら志願してばかになりきる、その心のゆとりこそが大切なのです。
 
ありがとうございましたm(__)m
2003. 3.21
金曜
こんばんわ

右のお写真はどちらのサクラか不明ですが、山桜のワンシーンであります(^o^)丿

今日は渋滞の激しい一日でありました。

霊園の数キロ先から数珠繋ぎです(>_<)

なんとか入園しまして無事、お墓参りを済ませました。

もっとも、樹木も予想外に繁茂していて、葉や枝の剪定作業とお掃除に追われてしまいましたけどね(^_^;)

少々疲れましたが、お天気も上々で、有難い一日でありました。

明日は土曜日ですが、お仕事の予定も詰まっており、予定通りの段取りでがんばりたいです(^○^)

そういえば、その翌日の日曜日も僕の営業担当日で、出勤ですので気合を入れましょう(^_^;)

東京の今日・明日の天気を覗きながら、快晴の日曜日を期待しています。


本日の感じるお話です。
    与えると与えられる    庭野日敬  (1964年、昭和39年)

 私は各界の著名人に会う機会が多いのですが、そうした方々に共通しているのは、自分一人の小さな欲望よりも、社会のためにいかに自分を役立てるか、どうしたらより多くの人に喜んでもらえるかと、常にそのことを心がけておられる方が多いことです。

 大きな仕事をする人は、いわゆる「与えて、取る」ギブ・アンド・テイクではなく、ギブ・アンド・ビー・ギブン「与えてこそ、与えられる」という気持ちを強く持たれているように思えます。
 
ありがとうございましたm(__)m
2003. 3.20
木曜
こんばんわ

今晩は接写写真を掲載させて頂きます。
「精霊達の森」様より

マクロもぼかしも奥が深いのでしょうね(^^ゞ

今月は日記ページが順調に更新されています。

極めて、珍しい現象といえます(>_<)

これも毎日サクラのお写真を見たいという一念かもしれません。

明日は、お墓参りへ行ってきます。

郊外の東京都の霊園ですが、都内と趣きも異なり、緑も多くドライブ気分も味わえます。

もっとも、郊外の大型100円ショップと回転寿司が目的の御仁と一緒ではありますが・・・(^_^;)

東京の今日・明日の天気・・・によりますと晴れのようですので、デジカメ片手にまた綺麗な春の花を撮って来ようと思います。


本日の感じるお話です。
    不完全だからこそ    庭野日敬  (1967年、昭和42年)

 「人間なんて欠点だらけ。人格を完成して仏になるなどというのはおこがましい」と言う人がいます。確かに人間は不完全なものであり、必ず欠点があります。

 しかし、不完全であることを自覚すればこそ、仏さまのような完全円満な人格にあこがれ、それを理想として、精進するわけです。それが人間の人間たるゆえんです。

 「こうありたい」という理想を持ってこそ、自分の啓発に努め、進路をたがえずに少しずつ欠点を補って向上していけるのです。
 
ありがとうございましたm(__)m
2003. 3.19
水曜
こんばんわ


本日のお花見は、福島県福島市の花見山というところのサクラだそうでございます(^_^;)


いつも「精霊達の森」様にはお世話になります(^^ゞ


昨晩は、ブッシュ米国大統領がイラクに最後通告をしましたが、暴力の連鎖、戦争という犯罪行為に対する憤りもあり、少々書く気もなくなっておりました。

数ヶ月前、あるテレビでイスラエルのユダヤ教の高い位の僧侶の方ですが、ホロコーストの時に確か8歳で、家族でただ一人生き残ったという悲惨な経験をされた方が出ておりました。(一部分しか記憶にありませんが・・)
お父さんとお兄さん(13歳)はガス室で亡くなられた(殺害された)というのです。(お母さんは餓死されたと・・)
そして、『許すことなど決してできるものではないのです』という言葉を聞きました。
高邁な宗教家をもってしてもかく感じ、かく決意せざるを得ない現実世界であったわけです。

もしも、最愛の我が子や家内が虫けらのように殺されたとしたら・・・・・・・

『戦争行為・暴力行為』の本質はやはり、悪魔の所業でしかありません。
2003. 3.18
火曜
こんばんわ

昨年の上野恩賜公園です。

不忍池の湖面が輝いて、暖かな小春日和のひと時でありました。



http://www.asahi.com/international/update/0318/012.html

相田みつを さんのお話です。
    「 願 」

「自分が死ぬと、その知らせが
日本へゆくな。
おふくろやおやじ、弟達が
それを聞いてどんなに歎くことか。
いま、死んでゆく自分にとって、
そのことが一番辛い。
戦争は人間の作る最大の罪悪だなあ・・」

これは、いまから四十数年前、中国で
戦死した、私の兄の最期のことばです。
兄の戦友が、内緒でよこした手紙で
わかりました。

 私には兄がもう一人いて、やはり、
ビルマの戦場で死にました。


二人の兄達は、
弟の私に、
いつも人間としての
生き方や夢を
語ってくれました。

二人の亡き後、
それはそのまま、
わたしの、「願」となりました。

 願とは、
自己中心的な欲望ではなくて
仏さまのよろこぶ生き方
のことではないかと
思います。

  「一九八七年三月二一日」


-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*

  ひぐらしの声

ああ 今年も
ひぐらしが鳴き出した

ひぐらしの声は
若くして戦争で死んだ
二人のあんちゃんの声だ
そして
二人のあんちゃんの名を
死ぬまで呼びつづけていた
悲しい母の声だ
そしてまた
二人のあんちゃんのことには
ひとこともふれず
だまって死んでいった
さびしい父の声だ

ああ 今年も
ひぐらしが鳴き出した

本日の感じるお話です。
    それぞれの御役(おんやく)    庭野日敬  (1970年、昭和45年)

 キリスト教では、「神はこの世にむだなもの、不必要なもの、悪なるものは(つく)っておられない」と教えます。仏教でいえば、この世の万物万象は偶然に生じたものはなく、一切のものは、あるべくしてあるものということになりましょう。

 別の言葉でいえば、この世に存在するものはそれぞれ「御役」があるということになります。「この世の中、生きていてもおもしろいことは何もない。死んだほうがましだ」と世をはかなんだり、「自分などいないほうがいいんだ」とひねくれる人がいますが、それがどれほど誤った考え方か分かるはずです。

 『法華経』には、

 「今()三界(さんがい)は皆()(わが)()なり。
 ()の中の衆生(しゅじょう)(ことごと)く是れ()が子なり。
 (しか)も今此の(ところ)(もろもろ)患難(げんなん)多し。
 (ただ)我一人(われいちにん)のみ()救護(くご)()す」
 

 という仏さまのお言葉があります。

 神仏から見れば、かわいくない人間、無用の人間などあるわけがないのです。私たちはつい、「いてもらわなくてはならない人」「いてもらっては困る人」などと人を区別しがちですが、すべての人が"仏の子"であることを、互いにしっかりと心に刻まなくてはなりません。

 自分で自分を「いてもらっては困る人」にしてはならないのです。
ありがとうございましたm(__)m
2003. 3.16
日曜
こんばんわ


最初の一枚は「埼玉県幸手市権現堂堤」のサクラと菜の花です。

「精霊達の森」様より


さくら尽くしできましたので、菜の花もいいものですね(^o^)丿


下の写真は、
今日、家内と出かけた、駒場公園内で咲いていた梅の花です。


僕が撮りました(^_^;)


朝方は晴れておりましたが、
気温は低めでまだ寒かったです。


ちょっと早めのサクラを見ようかと出かけたのですが、・・・・
まだ開花の様子もなさそうでしたので、早めに帰宅してしまいました。(^^ゞ












下に駒場公園でのスナップを少し編集してみました。

公園内に広場や林もありましたが旧加賀藩の前田侯爵邸の建物がありました。

上の段 洋館正面 和館の庭園 和館の入口の門

下の段 洋館正面 和館の入口の木 和館への誘導路



本日の感じるお話です。
    仏道修行に欠かせぬ提婆達多(だいばだった)    庭野日敬  (1976年、昭和51年)

 お釈迦さまは自分の命を狙ねらった提婆達多を「私に悟りを開かせてくれた善知識(ぜんちしき)である」とおっしゃっておられます。

 善智識とは、仏道に導いてくれる最高の友人という意味です。

 私たちも「あの人は私を磨いてくれる提婆だ」といった言い方をよくしますが、口で言うのは簡単でも、いざ実際に難癖(なんくせ)をつけられたりすると、その人を善智識と拝むことはなかなかできるものではありません。

 かつて私が新井助信(あらいすけのぶ)先生のもとで修行していた当時は、毎晩二、三時間しか眠る(いとま)がないといった生活が何年も続いたものでした。

 それで早朝に起きだして牛乳の配達に回らなければならないのですから、夜寝るときに、「朝の四時に目を覚ますことができますように」と、真剣に念じてから(とこ)に入るのです。

 すると不思議に、夜中の二時に寝ても四時にパッと目が覚めるのです。うっかり寝坊をしたりすると、いつもそばについている家内に、「そんなに疲れるのなら、信仰など止めたほうがいいでしょう」と言われてしまうのですから、真剣です。

 その見張り役の家内が、善智識だったわけです。

 仏道修行は提婆達多がいなくては本物になりません。
ありがとうございましたm(__)m
2003. 3.15
土曜
岩手県小岩井農場にあります、一本桜という有名なサクラだそうでございます。

こんばんわ(^^ゞ

お花見が待ちきれなくてこちらでは、もう始めてしまっています(^_^;)

このお写真も大好きな写真のひとつです。

近影にしても、遠くから見たものにしても素晴らしい自然美としか言いようがありません。

何時間でも見入ってしまうような魅力に溢れています。



さて、昨晩から読み始めました漫画/コミックです。

『どんぐりの家』小学館、山本おさむ著、1993年発刊
http://www.ruralnet.or.jp/~NCL/set/09183969.htm
http://www5b.biglobe.ne.jp/~hyogocc/3sakuhin/donguri/donguri.html

振り返ってみますと、私はまだ実際にハンディキャップをお持ちの障害者の方の生活上のお話を伺うことはありませんでしたので、このコミックに描かれている世界は私に鮮烈な印象を投げかけました。

耳が聞こえずに、知的障害や情緒障害までもあわせもったお子さんが数多くおりました。
子供は時とともに成長します。しかし音のない世界に住んでいる子供さんは意思疎通の手段も当然知らず、そのまわりの大人たちもどのようにして子供のこころをうけとめてよいのかよくわかりませんでした。
こどもはたとえ聞こえなくとも大人のこころの波動を感じているのでしょうか。
知的障害も併せ持つ場合のケースでは、世間の理解や援助・思いやりとは程遠く、その子供を固定的に決め付けて社会的に排除しようとしてしまうのです。
満たされない心は、自虐的な行動にも走ってしまいがちです。説明不足ですが、自身の排泄行為も自発的に行えない障害でもあるのです。子供達の絶望的な苦しみを感じながら、どうすることもできず生活の中で疲れきっていく親御さんの姿がありました。
また、幼稚園、小学校といった一般教育機関ではとうてい受け入れる制度も人材もありませんでした。就学猶予・免除といった形で受け入れの拒否が行われていた時代でもありました。
ろう学校の幼稚部などがその受け入れ先となって、重複障害児との必死な教育が始まるのでした。
またそれは家族の幸せのために真剣に生きようとする親御さんとお子さんとのこころの歴史でもありました。

そしてひとりひとりの行動(たとえそれが非日常なものであったり、一般的には受け入れ難いものであっても)から子供達のこころの叫びを学んで行く親御さん・先生方の姿がありました。その過程はまことに壮絶で、奥深い愛情の発露以外の何者でもありません。

先ほども6巻すべてを読んでしまいましたが、7巻目も読むつもりです。
何度となく読み返しながら、考え、学んでいかなければならないと感じた本でございました。


本日の感じるお話です。
    足りなさを知る賢者    庭野日敬  (1969年、昭和44年)

 「たとえ愚かな者であっても、自分は愚かであると知っている者は賢者である。愚か者であるのに自分は(かしこ)いと思い込み、そのように振る舞う者がいたら、それこそ本当の愚か者といわなくてはならない」と、お釈迦さまは、『発句経(ほっくぎょう)』で説かれています。

 ものごとの本質を忘れて枝葉末節のことで争い、自分の足りなさを(たな)に上げて小利口ぶり、自分はいつも正しく相手が間違っていると責め合っているのが、今の社会ではないでしょうか。二千五百年も前にお釈迦様が鋭く指摘されたお言葉が、いま、私達の胸に突きささります。

 どんなに時代が変わろうと、人の本性はなかなか変わるものではないことを、あらためて思い知らされるのです。

 その自分を変えていく唯一(ゆいいつ)の道が、自分は愚かであり、足りない者なのだ、と自分を知ることにあります。お釈迦さまの教えをよくよくかみしめなくてはなりません。

 自分を利口者と思ったら、もう進歩向上は止まってしまうのです。
ありがとうございましたm(__)m
2003. 3.14
金曜
こんばんわ

今日も桜尽くしです(^_^;)

こちらはどちらのサクラか不明。

精霊達の森さんの数あるサクラの中で、こちらのお写真に惹かれました。

一方、お花見サイトもいろいろありましたが、音楽付で情緒たっぷりのページにしばし聞きほれてしまいました(^_^;)

ちなみに、こちらの↓サイトです。
http://homepage1.nifty.com/tachibana2000-1/sakura/index2.html

ところで、今日ふとしたことから、あるコミック本に出会いました。

ほとんど漫画本などは読みませんが、30分ほど出先で時間ができてしまい、お客様の車の中に置いてあったので小説かと思いきや、コミックでした。

とりあえずパラパラと読み始めたのですが、驚きました。

『どんぐりの家』小学館、山本おさむ著、1993年発刊というコミックでした。
http://www.ruralnet.or.jp/~NCL/set/09183969.htm
http://www5b.biglobe.ne.jp/~hyogocc/3sakuhin/donguri/donguri.html

重度障害(ろう重複障害児=聴覚障害と知的障害などを併せ持つ障害児。)を持って生まれた子供とその家族(社会との関わりにおいても)の苦悩・葛藤を赤裸々に描き、そうした家族と福祉学校の先生方との真剣な協力の中で「どんぐりの家」という施設・作業所を建設していこうとする物語でした。
子供達の心を理解できるまでにいかなるご家族・ご両親、そして先生方のご苦労があったか、コミックという手法で理解しやすく表現されておりましたね。

帰り際に、中古本のお店に入り(新刊書店では注文しかありませんでしたので)廉価で発見し!!6巻まででしたがありましたので購入しました(^^ゞじっくり読んで見たいと思います。

日本全国での映画の上映もあったんですね、知りませんでした。
2003. 3.13
木曜
うーーむ
こんばんわ(^^ゞ


止まりませんね(^_^;)


福島県三春町の滝桜という桜の名所だそうでございます(^o^)丿


http://travel.yahoo.co.jp/special/sakura/famous/place_010.html


すごいもんですね


いろいろと全国の桜の名所は多々あるようで、ひまもお金もない時は、ネットで見るしかありませんね(>_<)


さくら紀行2003 http://travel.yahoo.co.jp/special/sakura/

Exciteお花見  るるぶ お花見スペシャル2003

桜便り      BIGLOBE 全国お花見特集

Yahooお花見サイト http://dir.yahoo.co.jp/Society_and_Culture/Holidays/Cherry_Blossom_Viewing/

こんな感じで、暇なときにお花見に行きましょうかね(^_^;)

今日はお勉強はお休みです(^○^)
2003. 3.12
水曜
こんばんわ

本日も春の久遠寺のお写真です。

桜・山門・青空・・・・・鮮やかさが目に染み入ります。


先日、それなりに分かっている・・・・と思っていた自分が現実生活の中で、何も分かっていないのではないのかと、思わせられる事がありました。(詳しいお話はできませんが)

人さまへの思いやりどころか、批判する心や許せないという心に執着している自分がいつまでも居りました。

逆に、人さまを苦しませている自分であります。

『布施行とは、人さまに本当の喜びを与えようと、精いっぱい努力することです。』と、ありました。

気持ちを切り替えて努めていかねばなりませんね。

一方で、朝・晩の先祖供養を通じて、ふと心が軽くなるということもまた、あります。

不思議な心の軽さに、有難い事と感謝して、傲慢な姿勢を反省して、一日元気に勤めることができました。

本日の感じるお話、二題です。
    明日は分からないから    庭野日敬  (1971年、昭和46年)

 私たちは、自分が不幸になるようなことは、なんとしても避けたいと考えます。人は幸福の夢だけを思い描いて生きているともいえます。しかし、現実はそうはいきません。甘い夢があっけなく砕かれることのほうが多いのです。

 しかし、だからといって初めから「夢なんかかなうものではない」とあきらめてしまうのでは、生きていく喜びもありません。明日はどうなるかわからないからこそ、夢を描くことができるわけです。また、明日のことはわからないという不安から、「しっかり努力して、明日に備えなければ」という励みも生まれます。逆に明日のことがみんなわかってしまっていたら、生きる意欲のわかない、おもしろ味のない人生になるのではないでしょうか。

 「生きるとは、不安定を生きることだ。不安定でない人生はない」と言いきる人もいます。

 お釈迦さまも、まず「人生は苦である」としっかり認識することの大切さを説かれました。苦を見すえ、その原因を明らかにし、それを克服して真の喜びを見つけていく。それが人生だともいえましょう。
 信仰もそこから始まるのです。

    人間性の開発       庭野日敬  (1969年、昭和44年)

 仏性(ぶっしょう)開顕(かいけん)は人生の大眼目です。

浄土は西方(さいほう)の彼方にあるのではなく、自己の本然の姿である仏性を開顕したときに、苦の娑婆と見えたこの世界が、じつは浄土であったとわかります。

 それが『法華経』に説かれる「我此土安穏(がしどあんのん) 天人常充満(てんにんじょうじゅうまん)」の世界です。

 その寂光土(じゃっこうど)を、いま私たちが住んでいるこの社会に実現するために私たちは努力しているわけで、それが「普門示現(ふもんじげん)」の活動にほかなりません。

 あまねく人びとの仏性に呼びかけていくのが普門の心ですが、人びとにいきなり「仏性の開顕」といっても、分かってはもらえません。そこで、「人間性の確立」という言葉を使ったわけです。

 仏性とは、すべての人間にそなわる本然の性ですから、これを「人性(じんせい)」と呼んでもいいのですが、善も悪もそのままでいいわけではありません。あくまでも、人性即仏性で、自分の内にある仏と同じ性質に気づき、それを伸ばすことが大切なのです。

 仏性開顕とは、つまりは人間性の開発ということにほかならないのです。
ありがとうございましたm(__)m
2003. 3.9
日曜
こんばんわ(^○^)

毎回あまりネタがございませんので、素晴らしいお写真とお話にてなんとか成り立っているようなわがまま日記であります
(>_<)

このお写真は、身延山久遠寺のサクラですね。

まさしく、見事なものであります。

ちょっと早いのですが、我慢できずにアップさせていただきました。

ところで、大昔に確か高校か大学のころ父も含めて大人の方々とともに身延山のご来光を仰ぎにいったことがございました。

当時はゆっくり自然を愛でる状況ではありませんでしたがね(^^ゞ懐かしい思い出です。

尚、こちらもhttp://www.forest2001.net/index.htm精霊達の森様よりお借りしています。

徐々に暖かくなって日本列島の桜前線も北上してくることてありましょう(^o^)丿
なかなか楽しみであります。

本日の感じるお話です。
    自分が仏になる供養    庭野日敬  (1990年、平成2年)

 彼岸会(ひがんえ)の「彼岸」というのは、向こう側の岸という意味なのですね。争いや苦しみの絶え間がないこちらの世界に対して、平和に満ちた仏さまの世界のことです。

お彼岸にお墓参りをし、ご先祖の供養をするのは、ご先祖さまが仏さまの世界で安らかに過ごせるようにと、花や香をお供えしてお参りするのですが、いちばん大切な供養は、仏さまの教えどおり自分が実行しようと努力する行供養(ぎょうくよう)です。

 お釈迦さまは、苦の此岸(しがん)から涅槃(ねはん)の彼岸に渡る方法として、六波羅蜜(ろくはらみつ)の教えを説かれました。その一番目に挙げられているのが布施行です。

 布施行とは、人さまに本当の喜びを与えようと、精いっぱい努力することです。

 "六度そうしょう"といって、まずその一つのことにつとめると、おのずと戒律を守り、忍耐し、怠けず、心静かに思いを深めることが、だんだんできるようになってきます。そうして自分が仏さまの教えどおりに精進して次第に高まっていくのが、ご先祖さまへのいちばんの回向(えこう)、供養になるのです。

 日蓮聖人は「自身仏にならずしては父母(ぶも)をだにもすくいがたし」と教えておられます。
 
ありがとうございましたm(__)m
2003. 3.3
月曜
こんばんわ(^_^;)

すっかりご無沙汰しております(>_<)

寒かったり暖かかったりと、日々寒暖の差が激しいのはこの時期特有のことですが、風邪も引き易く、体調には気をつけませんと危ないですね(^_^;)

この、雪のお写真はとっても気に入っています(^^ゞ

今の壁紙にもしております。

なにか落ち着きがあって、平和で雄大な世界でしょ(^o^)丿


ところで今日はひなまつりなんですね(^_^;)

我が家にもひとりおりますが・・・・いまだに帰っておりません(>_<)・・・・午後10時半すぎ(~_~;)・・・・

ケースに入ったひな人形たちもなんとなくシラケ気味です(>_<)

あたたかな、サクラの春を待ち望んでいる我が家なんですよ(^o^)丿


   
        

http://www.yasuragian.com/(^^ゞ


本日の感じるお話です。
    大安心(だいあんじん)の源    庭野日敬  (1989年、平成元年)

 仏道を行ずる最高の功徳は、毎日のひと時ひと時を、歓喜を持って生きられるようになることだと思うのです。

仏法にのっとって、だれに見られてもやましいところがない、間違ったことはしていない、と自信を持って生きられる毎日こそが極楽だといってもいいでしょう。

 お釈迦様は「過ぎ去れるを追うなかれ。来たらざるを願うなかれ。ただ現在するものを観察すべし。今日なすべきことを熱心になせ」と教えられました。

 地唄舞(じうたまい)の名手の武原はんさんは、「稽古して、稽古して、稽古して・・・・・。これでもかというほど稽古しておかないと、安心して舞台に立てません」と言われます。

 どんな名手であっても、いざ舞台に立つときは、「もし失敗したら」と不安で一杯になるのです。その不安をなくすのには、ふだん自分のなすべきことに全力を尽くすしかないのですね。

 過去を悔やんだり、まだこない未来のことを心配したり、人と比べてひがんだりせずに、いま自分のなすべきことに熱中するその生き方に、大安心があるわけです。
ありがとうございましたm(__)m


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