わがまま日記

( ̄。 ̄;)2005.11月12月合併号

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10月へ(^○^)1月へ(^o^)丿
老年でなくても病気をしていると、人は「生活」から「人生」の次元にいつの間にか滑りこんでいますね。
私は、生活必ずしも人生ではない、と考えています。生活は私の考えでは自分の心の奥底にあるもの、
自分の人生の核になっているものを無視、軽視していなければなかなか成立しないものです。
生活は道徳、世間体、外づらを大事にしないと運びませんし、自分の心の奥底にかくしているものを露骨に見せるわけにはいきません。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・
しかし、病気になり、あるいは孤独な老年になりますと、否でも応でも「本当の自分」と「死」との二つに対面せねばならないでしょう。
世間や他人には隠していた自分の心の奥底が、病気や老年になりますと他の時よりはずっとむき出しに現れ、夢にも出現してくるのですね。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
そういう意味で、病気や老年は人間にとって神様が、『自分の素顔を見てごらん』とおっしゃって鏡をわたしてくださったのだというような気がしています。
特に、上顎癌かもしれぬ、と言われて手術をした時から、そういう気持ちになっています。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
そして神様や仏様が問題にされるのは、この他人や世間には隠している素顔のほうだったのだ、と思うようになりました。

「さあ、お前は年とった。死が迫ってきたのだよ」 と神はおっしゃいます。
「これからは、お前の本当の顔をまじまじと見る時がきたのだ」 「なんのためですか」 
 「それが、お前が私のところに持ってくるお前自身だからだ」 「では友人や家族の目にうつっている私の顔は?」
「あれは地上に残していくお前のかたみのようなものだ。しかし、かたみは思い出の種になってもお前そのものではない」

こうした会話をどれくらい、真夜中、私は闇の中でくりかえしたでしょう。
これが死の不安に苦しめられた時の、私が神からもらった大きなプレゼントでした。


『死について考える』(遠藤周作著 --死が迫ると--の章 より引用)
2005
.12..18
日曜
みなさん、こんばんわ(^_^;)

ほんとに、大忙しの12月となっておりますね(>_<)

お仕事のこと・法事のこと・霊園のこと・銀行その他年末雑事のことなど、出来るだけ日々の処理事項をノートに書きこんで片付けて行きませんと混乱するばかりです(-_-;)


さてさて、本日の日曜は、そんななか、2週間ぶりの休日とさせて頂き、なんとか貴重な骨休みの日となりました。

だいぶ長いこと気になってはおりましたが、機会に恵まれずにいた『ハリーポッターと炎のゴブレット』を家内と一緒に観に行ってきました(^o^)丿

ほぼ予想通りですが、やはり面白かったですよ(^^ゞ

家内に聞いてみると、面白かったけれどちょっとわかりづらかったとこもあったわね、ということでした(^_^;)

やはり本を読んでいないと、流れがわからずに意味不明なところが出るのも仕方ないところかもしれません。

最初のお写真のシーンもどこらへんのだろうと思っていましたが、ハリーがドラゴンと闘おうとする第一の課題の際に心配のあまり選手の控えテントに来てしまったハーマイオニーとのシーンでしたね(^.^)



右のお写真のクリスマスダンスパーティーのシーンもなかなか楽しいものでしたね(^^ゞ

本では確か、魔法によって出っ歯を直してちょっと美人になったハーマイオニーは・・・でしたが、さすがに映画は可愛い少女に変身して素敵でした。

なにしろ第四巻は、新たな魔法学校の登場やら対抗試合やらワールドカップやダンスパーティー、そしてヴォルデモートの策略と復活などビジュアル表現のお楽しみも数多くありますので、またまたDVDを何回も見直すことになると思います(^_-)-☆



一番下のお写真は、あまり今まで出ていなかったので載せましたが、第一の課題を無事終えて、ドラゴンの金の卵から得たヒント・・・一時間ほどのあいだどのようにして水中での息継ぎなしでいられるようにするにはどんな手があるのかを図書館で調べようとしているシーンでした。

午前から午後にかけての渋谷の映画館も満杯で、午後4時の放映を観るのがやっとでしたね(^_^;)

なんとか楽しめましたので、今年も残り少ないですが、しっかり頑張りたいと思います(^_^;)

でわでわ、おやすみなさい(^o^)丿

2005
.12..4
日曜


2005
.11.28
月曜
みなさま、こんばんわ。

『今日ものんびり掲示板』でお話しましたが、僕の親父が先日(11月21日午後6時6分)亡くなりました。

今日は亡くなった僕の親父とともに、いろいろとお話したいと思います。

肺がんであることが判明してから(今年の4月末頃)、結果的に手術以外に的確な治療が思うようにできずに、ほぼ7ヶ月で亡くなった父の場合を考えると、やはり手遅れのケースだったのかもしれない、とも思えます。

それでも、家族の誰もが今年中に父が亡くなるとは想像もしておりませんでした。

しかしまた、骨となって骨壷に納める時、親父の骨は、壷からあふれんばかりの量で、かなりしっかりとした骨格であったことを思い出します。

体重は10キロほど痩せたものの、脳や下腹部への転移もなく意識も亡くなる前日までしっかりとしておりました。

それは、父がメモを書いていた手帳に、亡くなる二日前までの日々の出来事がわずかずつではありますが、克明に書かれていた事からもわかりました。

もっとも、手術でも取り切れなかった小細胞ガンは亡くなる10日前ほどから肺の呼吸機能を徐々に麻痺させて(癌性リンパ管症)、日々酸素吸入器からでなければ十分な酸素も取り込めないという状況に陥らせ、あわせて、点滴モルヒネによる痛み止めにて、できるだけ苦しくないようにと、病院での管理にお任せせざるを得ませんでした。

そうした中での手帳への書き込みは、僕自身驚きで、よくあんな状況の中で書き続けたものと感心しつつも改めて悲しさが残ります。

また、そのころ、4年前に父が既に書いていた「遺言書」や関連資料を父が再確認したいとのことで、母が病院へ持って行ったことがありました。

まだそのころは、遺言書は以前から内容的には兄弟にはよく聞かされていたこともあり、よく読むようにと母から言われたものの、さらっと読むだけで、一進一退を繰り返す病状が心配でそれどころではありませんでした。

そういえば、土曜の夜(19日)会社で残業の時、午後7時半を過ぎて、病院からの電話があり、父が僕に逢いたがっているということで、急いで病院へ駆けつけたことがありました。

その二日後に亡くなるのですが、親父は今一度長男の僕にしっかりと話をしたかったようです。

会社のこと、仕事のこと、財産分与のこと、義兄のこと、弟のこと、それぞれの家族のことなど、思いつくままに話をし、僕はうなづきながらがんばるから大丈夫だよと笑いながら話をしておりました。

今週末が危険です、という医者の話で孫たちはじめ身内の者、親戚の方々やごく近しい業界の方々に伝えて、病院に来て頂きましたのもその頃ですね。

もっとも後で聞かされたのですが、私の次男坊がお見舞いに行き、会うのも久しぶりだった孫ということもあり、「お別れに来てくれたのかい」と父から言われてしまったとのこと、本人もあまり時間が無いことを察知していたのかもしれません。

痛み止めや酸素吸入の補助があるとはいえ、父の意識が薄れつつあるなか、時には苦しそうに口を開けて呼吸をする父の姿は、生きていくことそのものが苦しみであることを強く実感させるものでした。

医者が説明していた通り、フルスピードで走り続けていた父の心臓が血圧130から30ほどに急下降してほどなく、親父は二度と再び呼吸することはありませんでした。

父の眼を閉じていた母は、その時スッと父のたましいが母の体内に入ってきた感じがしたそうで、涙して嘆き悲しむといった気持ちにならずに安堵感を感じたと聞きました。その場に立ち会えたのは、僕と母の二人だけでした。


 お通夜や告別式の準備のさなか、改めて残された父の書類に眼を通してみると、記帳していたノート以外に、筆書きの遺言書(平成13年作成分)・ワープロの遺言書細目(同年)・会社について(同年)・葬儀について(同年)の父の希望が細かな点まで書かれておりました。

さらに当時は確か「勲六等瑞宝章」の叙勲などもあったように記憶していますが、既に葬儀の際の父の希望の『写真』も綺麗に入っており、棺の中になになにを入れてほしいといったことも書かれておりました。
母はこうしたことまでは知らなかったそうであります。(もっとも、最近は記憶が怪しいので、何とも言えませんが・・・)

( 『平成13年 春の叙勲』として、誇らしげに書かれた 結婚54周年 の文章に
「5月10日 夫婦で宮中に参内し叙勲伝達式があり、天皇陛下に拝謁してお言葉を賜った。豊明殿にて。」とありました。
父にとってまことに良い思い出になった事でしょう。 )

また、同じ書類入れに以前から親父がワープロで書き記していた様々な文章も出てきました。

小さい頃父から多少は聞いたことがあったものの、「私の生涯」と題した小さな文章を読んでいくと、趣味の読書の話の後、生まれた時代と当時の親父の環境が書かれ、父の祖父は資産家の製材業を営んでいたものの失敗し、父の父と機織業をしていたとありました。

その後、父が五歳の頃に父母が離婚したこと、一番下の妹さんがよその家に貰われていったことなど、幼少にして悲しい出来事の多かった父の姿が想像されます。また当時、祖母に可愛がられたことで深い感謝の気持ちを表現しています。

昭和初期当時の大変な不況の中、経済的にも困窮していた様子が伺える文章の中で、父が15歳の時にその父親が46歳という若さで亡くなった様子が書き記されておりました。

『・・・・・・・父の虎造さんは私に対して一度として大きな声を出して叱ったり、怒ったこともない優しい父親であった。
今でも一番先に思い出すのは父の姿であるが、これは父親が46歳で亡くなるまで変わらなかった。
貧乏で医者に払う金がなく、胸の病でやせ細って死んでいった。
私が高等小学校2年で卒業する、ひとつき前15歳であった。
父は2月28日の夕方しずかに亡くなった。
何年も前から体をわるくし働くことが出来なかったのだ。
そのときはすでに借家住まいとなり前に長い間住んでいた家も取り壊されその家の古材が山のように積んであったのを覚えている、情けなかった。
話は前後するかもしれないが60年前のことを思い出しながら書くことにする。
父が死ぬ前日あたりから親戚の人が集まってきた、皆ひそひそと話をしている。
どうもようすが変だと思った。
翌日28日昼過ぎ、善吉、医者を呼んでくるようにと親戚の叔父さんに言われて、八王子のはずれにある医者に急いだ。
遠い上に徒歩なのでかなりの時間がかかった。
医者に早く来てくれるように頼んだ。
私が家に帰った時には父は死んでいた。
15歳であった私は夕方であったが、外に出て空を見上げながら一人 涙を流した。
優しい父親であった。
親戚の人や父を知る人は皆 仏の虎さんと呼んでいた。
人の心配事の相談や悩み事を聞き、又手紙の代筆なども頼まれていたようだ。・・・・・・・・・・』

親父の供養と思って、写させて頂きました。

81歳と言う年齢は短くもあり、しかしまた、十分であると父は言うような気もいたします。

幼少の悲しい経験を経て、乗り越えて、私たちを育ててくれました。

いつも、離婚はしてはならないよ、とか、家族みんなが愛し合い協力してがんばっていけよと言っていた親父の顔が今でも思い浮かびます。

『瑞生院法貢善徳信士霊位』(ずいせいいんほうこうぜんとくしんしれいい)

立正佼成会川崎教会から頂いた親父の戒名です。僕は親父らしい素晴らしい戒名であると真心で感謝させて頂きたいと思います。

『瑞(ずい) よろこばしい。暖かく思いやりをもって人さま家族のために接してこられたお徳を讃える。
 貢(こう)  すすめる、すいせんする、みつぐ。長い間公共のお役に貢献され、奉仕に徹してこられたお徳を讃える。
 善(ぜん) よい、このましい生前のお人柄のお徳を讃える。

親父さん、長い間、ほんとうにご苦労様でした。

僕も これから がんばります。



本日の感じるお話です。
  無言の声を聞く    庭野日敬  (1987年、昭和62年)

 山に生えている木を見ても、まっすぐに伸びたり幹をくねらせたりして、さまざまなことを訴えているのですが、私達はふだんそれに気づきません。

 周囲の人たちに対しても同じで、健康なときは病人を見ても痛くもかゆくも感じませんし、若い人は老人の姿を見ても、自分とは関係ないもののように思っています。

 しかし、それでは本当のものは、なにも見えてこないのです。

 良寛さんは  「君()双眼(そうがん)の色、語らざれば、(うれ)い無きに似たり」 

 という言葉を愛されて、書にも残されていますが、聞こえない声に耳を傾けてこそ、仏さまの慈悲の説法が身にしみてきます。

 私は農家の生まれで、稲の苗を植え、豆をまき、サツマイモを植え付け、いろいろな作物を育ててきましたが、細かな心くばりをして、()やしをあげると、作物もこっちの心がわかって、ぐんぐん伸びていきます。

 慈悲心を持つと、作物の訴えが聞こえてくるのです。

 こちらに愛情がないと、どんな作物もよく育ちません。

慈悲心がなくては、人のさまざまな訴えも世界の苦悩も身に感じることができないのです。
ありがとうございましたm(__)m
2005
.11.06
日曜
個人ニュース11月号(平成17年11月06日)

みなさま、こんにちわ(^_^;)
東京の日曜日は曇りのお天気です。

今日は家内と一緒に、携帯電話を買い換えるべく、近くの駅前に出来た大きめのau店に行きました。

右のお写真が今度の僕の携帯です(^^ゞ

家内共々指定の椅子に座りまして、日頃の利用状況などをお話してからお嬢さんの解説に入りましたが、最初に薦められたのがこの携帯です。

シンプルなのが好きですが、着信音が以前のものは最高にしてても聞こえない始末で、ボリューム最大のチャイム音を聞かせてもらいました。(耳は衰えておりません(-_-;))
プルプルと震えるやつも設定しました。
表示文字も最大のやつを表示して「このくらいでよろしいですか?」とにっこり笑顔で尋ねられたので「ああいいね」と言ったものの、家内が「大きすぎるのでもうワンランク小さくしてね」と言ってくれて、少し小振りの文字となりました。
押すところもスペースが広くて使いやすく、機能解説もビジュアルに表示され理解しやすいものでした。
比較的小額の差額料金でデータの移し換えと共に購入できました。

帰り際、レストランで食事しながら、易しい解説書もあったので読んでおりましたが
・・・・・なんとなく・・・・・
まぁ、ある意味で、auのお嬢さんは、僕らを一目見て、おじいちゃん・おばあちゃんでも楽に使える携帯の一種が最良ではないかと、判断されて、親切に解説され、設定して頂いた訳なんですね(^_^;)
それはそれで、大変使いやすい携帯なので、よかったんだけど・・・

・・・まぁ、もうちょっと、最新式のテレビ付きはこんなんですよ、とか旦那様にお似合いのお洒落なデザインと機能の最新携帯はこれなんですよ、とか、瞬間的でも言い出されたら、今の充足感もさらに深く満たされたかもしれないなぁー、と思う、日曜の夕方どきでありました(^_^;)

やっぱ、『簡単ケータイ』がなぜか、ふさわしいと思われる風情(年頃)になってしまったのかなぁーーー(長嘆息(-_-;))

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