救いの手を(こば)む  庭野日敬  (1970年、昭和45年)

 イエス・キリストは十字架にかけられたとき、「神よ、神よ、どうして私をお見捨てになるのですか」と言われたと『聖書』は伝えています。

 神の子として人々に福音(ふくいん)を伝えることに身を捧げたイエスにとって、十字架にかけられる処刑は、まさに神が信じられなくなる出来事であったと思われます。

 けれどもイエスは、そのあとすぐに、「父よ、私の霊をみ手にゆだねます」と声高く叫んで息を引き取られるのです。

 曹洞宗の山田霊林(やまだれいりん)師は、そのときのイエスの心境を「わが身の苦しみよりも、十字架にかかるわが子を見つめる父である神のほうがはるかに苦しく、悲しい思いをされているだろうと思いをめぐらして、一切をおまかせする大安心の境地に達して、従容(しょうよう)として死につかれたのであろう」と解釈しておられます。

 私たちは何か苦しいことにぶつかってどうしようもなくなると、「神も仏もあるものか」と叫びたくなるときがあります。

しかし、「一切衆生(しゅじょう)はわが子」といわれる仏さまが、私どもを見放されるわけがありません。

 仏さまは、いつも私たちを見守り、救いの手を差し伸べてくださっているのに、私たちのほうがそっぽを向いて、その手をはねのけているのです。
人生の応援歌

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