下がると拝める   庭野日敬  (1997年、平成9年)

 相手のことがどうにも我慢がならんということが、だれにもあるものです。

 その相手が毎日顔をあわせなければばならない上司や同僚、また、お姑さんやご主人ということになると、大変です。ところが、そういうことがしばしばあるのです。

 けれども、よくよく考えてみると、それは身近な大事な人だからこそ、「こうあってほしい」という願いが互いに強すぎて、ふつうなら気にならないようなことが、たまらなくなってくるわけで、つまり好きと嫌いが紙一重なのです。

 相手の欠点ばかりが目についてどうしようもないというときは、知らぬまに自分のほうはまったく過ちのない人間になってしまっていて、一方的に相手を裁く裁判官になっているのです。

 じつは、それによって自分ががんじがらめになっているのです。

 人のことを責めて楽しいという人はいません。そうした自縄自縛(じじょうじばく)から解き放たれるのには、自分もまた、さまざまな欠点を持った人間であることに気づくことが必要なのです。

 そうして、自分が見えてくると、自然に人の長所が見えてくるようになります。

 自分が下がってこそ人を拝めるのです。
人生の応援歌

お話の一覧をフレームで見る
  





































SEO [PR] 爆速!無料ブログ 無料ホームページ開設 無料ライブ放送