行じている人の言葉    庭野日敬  (1988年、昭和63年)

 言葉は重宝(ちょうほう)なもので、舌先三寸、どんな立派なことも言えます。しかし、いくら言って聞かせても、子どもは言うことを聞かないし、部下は動かない。黙って聞いているようでも、子どもや部下は腹の中で、「この人は、言うこととやることがずいぶん違っている」と思っているわけです。

 家ではめちゃくちゃで、外でだけ口をぬぐってきれいごとを並べても、やはり人には分かってしまうのですね。こちらに本当の自信がないからです。

 言葉の重みは、何を語るかでなく、だれが語るかにあります。

 神仏を信じ、その教えどおりに行じている人が語ると、かりに言葉は稚拙(ちせつ)でも、「この人についていこう」という気持ちになるものなのです。

 「人を愛して親しまれないときは、(おのれ)の仁の至らなさを反省する。
  人を治めて治まらないときは、己の智の至らなさを反省する。
  人に礼して答えられないときは、己の敬の至らなさを反省する」
 という『孟子(もうし)』の言葉があります。

 周囲の人が自分の本当の姿を見せて磨いてくれる鏡だというのは、このことです。
人生の応援歌

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