法  話    庭野日敬  ( 瀉瓶無遺 )

 仏教学があって仏教が生まれてきたのではなく、まず人を救うための教えがあって、その教えが仏教学として体系付けられてきたのです。ですから、文字の解釈だけをどんなに上手にしてみても、それは八百屋さんの店先に並べられた野菜のようなものと言えましょう。大事なのは、その野菜を()らせる智恵(ちえ)と、農作業(実践)なのです。

 「私は上手な話ができません」と言う人がいますが上手な言葉で法門を説くことだけが仏教ではありません。悩みを聞いてあげることも仏教を説くことなのです。喧騒(けんそう)をきわめる現代では、むしろこの「聞く」ことのほうが大事かもしれません。

 私たちは在家の仏教徒であって、学者になろうとしているわけではありません。一つの行であっても、それを日々の生活の中で行じ、守っていくことが大事なのです。聖徳太子(しょうとくたいし)は法華経を「豊田(ぶでん)」と呼ばれました。種を()いて耕す、つまりコツコツと実践を続ければ、必ず収穫の実りをもたらしてくれる豊かな田という意味です。まず大切なのは耕すことなのです。
  
人生の応援歌

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