法  話    庭野日敬  (瀉瓶無遺 219)

 入門したばかりの僧が仏道修行の究極のところを知りたいと、名高い趙州禅師(じょうしゅうぜんじ)のもとを訪ねました。僧の問いに対して趙州禅師は、「もう、朝のおかゆを食べられたか」と聞かれるのです。「はい。もう食べました」と僧が答えると禅師は、「そうか。食べたら、その(はち)を洗っておくことだ」と言って、そのまま奥へ入ってしまったというのです。

 食事をとったら、その食器を洗っておく、それが仏教の奥義だと答えられているわけです。仏道修行とは特別のことをするのでなく、いまなすべきことをなす。師に出会ったらその教えを聞く。教えを聞いたらそれを実践する。平凡に見えることこそ、じつはいちばん大事であり、難しいのだよ、と教えられたのだと思うのです。前にも述べましたが、易行(いぎょう)こそがじつは難行なのです。

 修行とか、悟りというと、ちょっとやそっとのことでは届かない、なにか別次元のところにあるもののように考えがちですが、私たちの日常生活を離れて修行も悟りもないということが、よく理解できます。顔を洗うことも、朝食をいただくことも仏道なのです。これまで無自覚に惰性(だせい)で生きてきた人が自覚をもって生きるようになるとき、その人の人生はまるで違ったものになるのです。

 私は子供たちを育てるときに、「着ていた物をぬぐときには、着るときのことを考えてぬぎなさい」と言ったものですが、さまざまなものの恩恵を知り、いま自分のなすべきことを(おこた)らずにやれるようになると、それまで「主人は毎日働いてくれるのがあたりまえ」「子供は元気に学校へ行ってくれるのがあたりまえ」と考えていた毎日が一変し、一つ一つのことに、心から感謝せずにいられない生活になってくるのです。
人生の応援歌

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