法  話    庭野日敬  (瀉瓶無遺 5)

 日ごろ私たちは、見たり触れたりすることによって、さまざまなことを考えながら生きています。
災害のニュースを聞けば「お気の毒に・・・・・私にできることがあれば」と思い、素晴らしい生き方の人を見ると「私も善いことをしなくては・・・・・」と思います。
けれども、考えたとおりの実行がなかなかできません。

 それは、心の深いところにひそむ自己中心の心、煩悩(ぼんのう)(これを唯識説(ゆいしきせつ)ではマナ識と呼びますが)に縛られ、振り回されているためなのです。

 善いことを思い立ったら、それをすぐ実行に移せるようになるのには、いつも善いことを少しずつでも繰り返して習慣づけることが必要です。
その繰り返しこそ修行というものであり、それによって、心のいちばん奥底にあるアーラヤ識にそれが染み込んでいき、自然に善いほうへ導かれるようになるのです。

 これを熏習(くんじゅう)というのです。

熏習とは香りを人の心にしみ込ませることです。
常精進(じょうしょうじん)すなわち、この熏習こそが人間をつくり変えるのです。

 無量義経(むりょうぎきょう)の「徳行品(とくぎょうほん)」には、「潤漬(にんし)」という言葉が出てきます。布に水分が、じわりじわりとしみていく状態を言いますが、これが熏習に近いといえましょう。
人生の応援歌

お話の一覧をフレームで見る
  





































SEO [PR] 爆速!無料ブログ 無料ホームページ開設 無料ライブ放送