ヴィクトル・フランクルの祈り
ヴィクトル・フランクルは、アウシュヴィッツの強制収容所の体験、観察にもとづいて「夜と霧」という書物を刊行したが、この中で人間が限界状況のなかに立たされたときに、人はどのような態度をとるか、何が人を生かすのか、について、実例をあげながら叙述している。
そのなかで、私たちが真にいきるためには、人生を問う観点の変更を必要とすることを書いているのである。
私たちはよく自己を中心とした立場に立って、人生にいみがあるか?と問うのであるが、実は私たちこそ人生から問われているのだ、というのである。
人生が自分の思いどおりにならないと、一体人生に意味があるのか?と懐疑的になり,問うてみるのである。
しかし人生の意味を問うそのあなたは、今、どこに立っているのか?そのことをまず、ひるがえって考えて見るべきである。
この人生を見る観点が変わることによって、今まで見えなかったものが、本当の姿が、みえてくることが起こりうるのである。
さてアウシュヴィッツ収容所における出来事であるが、二人の自殺を決意した人たちがフランクルのところに来て、自分たちの心境を、そして自殺を決意したことを打ちあけたのである。
そのときフランクルは彼らに向かって「あなたは、だれかあなたの帰りを待っている人がいないのですか?あるいは、何かあなたをまっているもの,たとえば、あなたでなければなし得ない仕事というようなものでも、ないのですか?」とたずねた。
すると、そのなかの一人は「私には妻子が、私が無事であることを願い、ぜひ帰ってくるのを待っているのです」と答えた。
もう一人は「私には私でなければだれも代わって、なしとげることのできない仕事が待っているはずです」と答えた。
そこでフランクルは「そうですか。その、あなたを待っている人たちのあなたへの期待に、またあなたを待っているその仕事の要請にあなたは応答しなければならないのです。決して早まって自殺してはいけないのです。最後まで忍耐して、あなたを必要としている者たちに応答しなければならないのです。生きるとは応答することです。自分のことだけを考えてはいけません」、と勧告したのであった。
そしてやがてドイツは降伏し、彼らは収容所から解放されて帰国することができたのである。 私たちは自分のことだけを考え、また、自分の見通しだけを尺度として、希望が持てなくなったから、自殺を決意し遂行しようとすることは、自己中心的であり、自己主張を貫くことである。
それは、与えられた生を全うするものではなく、自己破壊を自ら行うことになるだろう。
私たちの生は他者への生であり、他者に応答する生であるべきなのである。
それゆえに、上の強制収容所に入れられた場合、あるいはいろいろの事情の変化により、解放される以前に死を迎えることがあるかもしれない。
そういう極限状態にあっても、なお一日一日を、自分を必要としている他者のために最後まで応答し、最後まで忍耐し、行き通したという事実こそ、その人は本当に立派に与えられた生を全うした、ということになるのである。
結果がどうかを問わず、主体的に応答の人生を生きぬいた、その生は決して空しくさるものではない。 まことに人生を問う観点の変更は、わたしたちの生(他者への生において全うされる)を全うするために必要な条件である。
小田島 嘉久 : 著 :「キリスト教倫理入門」 : ヨルダン社
|