法  話    庭野日敬  (瀉瓶無遺 10)

 人間の深層の心理に着目したのは、オーストリアの心理学者・精神医学者であるフロイトや、その考え方に共鳴したスイスの精神医学者・ユングといった人たちですが、それはせいぜいここ百年ほどのことです。
それに対して仏教の唯識説(ゆいしきせつ)は、五世紀にすでに人間の深層心理に光を当てているのですから驚くほかはありません。
いや、それよりもさらに古くから仏教では「根本の無明(むみょう)」という言葉があるように、人間の心を深く見つめていたともいえます。

 みなさんは以前よく法座で、「三界(さんがい)唯心(ゆいしん)所現(しょげん)」という言葉を聞かれたことがあると思います。
これは生死流転(しょうじるてん)する世界はすべて心の現れであるということですが、インドの弥勒(みろく)無着(むじゃく)世親(せしん)によって大成された唯識説も、「一切は心から起こる」として人間の心の構造をくわしく分析しております。
(げん)()()(ぜつ)(しん)()六根(ろっこん)を表層心理として、その下に、ふだんは意識されない深層心理があるというのです。

 私たちは六根のなかの「意」、すなわち意識を自分の心と思っていますが、その六根の下にマナ識(未那識)という自我に執着した層があって、これがつねに下界に接する六根の印象を、好きとか嫌い、きれいとかきたない、損とか得とかというように分けて、さらにその奥にあるアーラヤ識(阿頼耶識)という層に影響を与えているというのです。

つまり、私たちの体験の一切が熏習(くんじゅう)された種子(しゅうじ)としてアーラヤ識に内蔵されていくというので、このアーラヤ識を「蔵識(ぞうしき)」とも呼びます。
また、自分の体験した一切のことを種子としてアーラヤ識にしまってしまうので一切種子識(いっさいしゅじしき)とも言っております。

 この種子が縁に触れて、あたかも植物の種子が芽を吹き出すように表層心理に作用して具体的な結果をもたらすというのです。
このアーラヤ識のさらに下というか奥にアマラ識(阿摩羅識)、すなわち仏性(ぶっしょう)があるとする説と、アーラヤ識の浄分(じょうぶん)つまり清浄な部分として仏性が内包されているという説とがありますが、現在では後者の方が多く説かれているようです。
ただし、熏習された種子や、それを入れる倉庫というか容器のようなものがあるとは言っても、あくまでも、それはわかりやすくするためであって実体としてあるわけではありません。

 法華経では仏性とか自性清浄心(じしょうしょうじょうしん)とか如来蔵(にょらいぞう)といった言葉は使われていませんが、常不軽菩薩(じょうふきょうぼさつ)礼拝(らいはい)した対象は人びとの仏性ですし、たとえば、衣裏けい珠(えりけいじゅ)(たと)えなども仏性の存在を説いたものであることは言うまでもありません。
このように法華経は、人間が自己の仏性に目覚めることの大切さを説き示した経典、仏性開顕(ぶっしょうかいけん)の教えであると言っても過言ではないと思います。

 心の切り替えの大切さやカウンセリングの必要性を説く私たちとしては、この唯識説が示す心の構造とはたらきについては、大変興味深いものがあります。
仏教徒として、その基本的なことを(わきま)えておくことはむだなことではないと思うのです。
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