良薬を服す    庭野日敬  (1985年、昭和60年)

 親鸞上人(しんらんしょうにん)は八十歳を過ぎた晩年になって、心ならずも長男の善鸞(ぜんらん)義絶(ぎぜつ)しなくてはならなくなってしまいました。その原因は、善鸞が「親鸞上人の教えの真意は、自分だけに伝授されている」と言いふらしたためでした。

 父の申しつけで関東の信者の教化(きょうけ)におもむき、信徒の心を引きつけようとして言った言葉だったのですが、親鸞上人は「極楽往生の大事を言い(まど)わすような者は、もはやわが子でもなければ親と思うこともならぬ」と厳しく言い渡します。

 『法華経』の「薬草諭品(やくそうゆほん)」で仏さまは、「私は常にすべての人を平等に見て、ある人には愛着を持ちある人には分けへだてをするというようなことは、まったくない。私はいつも、一切の人に等しく教えを注いでいる」とおっしゃっておられます。

 人によって法の功徳に相違があるようにみえるのは、その人が仏さまの慈悲の教えをどれだけしっかり自分に受け止めているか、どれだけ実行しているかの違いなのです。つまり、仏さまがくださる良薬を、自ら「取って服す」かどうかの違いだけなのです。
人生の応援歌

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